会長ご挨拶


 17歳で歌手デビューして48年。今に至るまでの間に何度も、そして様々な山と谷を経験してきました。振り返ってみると山よりも谷の方が長かったようにも思います。でも一度としてこの世界から逃げようと思わなかったのは、辛い時に必ず大きな出会いがあったからだと思います。

 

 19歳で早くもアイドルとしての人気に翳りを感じ、不安と焦りで眠れない夜を送っていた頃、弟として共演させて頂いていた倍賞千恵子さんに涙をこぼしながら相談したら、

「あなたには芝居もあるんだから、他の人とは違うんだと思ってみたら?それに一生この仕事をやっていくのなら一時の人気なんて小さなことだと思うよ」と。

この言葉で僕は自信を取り戻し、再び前に向かって歩むことが出来ました。

 

 でも30歳の頃、もっと深刻な状況を迎えます。1ヶ月のスケジュール帳がほぼ真っ白。人と会うのも辛くて引きこもりのような日々を送っていた頃、ミュージカルの仕事が舞い込んで来たのです。

大地真央さんと最後結ばれる役。ほとんどテレビにも出ていないその頃の僕に、オファーをくださった東宝の酒井プロデューサー。

その後、今に至るまで僕に舞台の仕事があるのは酒井さんのお陰です。多い時には1年の内、半年舞台に立つようになりました。「この役は凄く難しいけど、今君はこの役をやった方がいい」と、いつも新しいハードルを与え僕を育ててくださいました。

 

 そして15年前。それまでもTV東京で過酷な旅番組をやっていた僕に「太川さんなら、辛い旅番組でも楽しくやってくれるから」と、[ローカル路線バスの旅]のオファーをくださった田中プロデューサー。ご存知の通りそれまでの旅番組を変えてしまうほどの番組になりました。

 僕の人生を大きく変えた3つの出会い。もちろんその他にもたくさんの出会いがあって今の僕があります。自分の努力以上に出会いによる力の方が大きかったように思います。

 

 この東京丹後人会の会長を拝命いただいた今、この会においてほんのささやかな、ほんの1つの出会いでもあればと思っています。だからこそ、もっともっと多くの若い人たちに参加していただきたい。

 東京丹後人の根底にあるのはもちろん郷土愛です。そんなに頻繁に帰省することができない丹後を、年に一度の総会で懐かしんだり、変わりゆく丹後の様子を耳にしたりしています。そしてこれからは、丹後のより良い変化を望み、またその為には何が出来るのか?そんなことまで皆さんと考えていける会になってくれればと思っています。

 

 是非若い人たちにも参加していただき、この会がより発展していくことを願っています。

                                       令和6年3月 東京丹後人会会長 太川 陽介